自死遺族は理解し合えるか?
自分の結論は「絶対に不可能」である。
というより、人は、他人と「ほんのわずかでも」共通の思いを持つことは、厳密には絶対に不可能である。
自死遺族だけが自死遺族を理解できるなどという幻想は、私から見れば、傲慢以外の何物でもない。
誰にだってそんなことは出来やしない。
私は、自死遺族同士の集まりを否定するつもりは全くない。
理解し合えなくても、苦しみを分かち合えない訳ではないし、回復の手段として有効な場合もあるからだ。
ただ、そこに行けば自分を理解してもらえるなどという幻想は、持つべきではないし、与えるべきでもない。
このことに疑問を持つ人は多いだろうか。
それとも、やはりそうか、と納得するだろうか。
例えば、私の「楽しい」は、あなたの「楽しい」と同じか。
私の「悲しい」は、あなたの「悲しい」と同じか。
どんな場合にでも、それらは絶対に別のものである。
ほんのわずかでも、重なり合うことは無い。
物理的に言えば、私の脳細胞とあなたの脳細胞は、ただの 1 個も共有されていない。
つまり、どのような場合にでも、なにかしら相手と同じ感情を持つに至ったと理解するのは、幻想や思い込みに過ぎない。
同じ形を見て、同じ音を聞いているというのも、もちろん完全な幻想である。
しかし、これらを同様のものとして扱うことで、お互いのコミュニケーションが可能になる。
私の見ている林檎は、あなたの見ている林檎と同じ形をしている、という幻想をお互いが持つことで、コミュニケーションが可能になり、社会が構成されるのである。
以上のことを理解しなければ、相手への真の思いやりは生まれない。
お解りだろうか。
相手が辛そうに見えるときに、「その気持ち、解る」とか、万が一にもあり得ない、嘘偽りなのである。
相手が苦しんでいるときに、嘘偽りに満ちた言葉を投げかけるのが、思い遣りか。
ましてや、愛情などと言えるのか。
もちろん、答えは「否」である。
私は、これまで他人から受けてきた「自分もそうだったから解るよ」といった類いの言葉は、全て刃として心に突き刺さった。
だから、そのようなときは、相手が何も言葉を発さなかったものとして、振る舞って来た。
「自分もそうだった」までは良い。似たような現象を体験したという主張に過ぎないし、それがもし嘘偽りだとしても、それは私にはわからない。
しかし、次の「(だから)解るよ」なんてことは、たとえその場で世界が終わったとしても、けっして起こり得ないのである。
自死遺族の場合、感情の多くは、その人間の個人的体験から生まれる。
その体験は、どれだけ近くにいる人間だろうと、共有することはできない、完全に固有のものである。
それを、見ず知らずの人間に、「解る」などという虚偽の言葉で踏みにじられることに、あなたは僅かでも耐えられるのか。
それとも、踏みにじられていることにすら、気がつかないのか。
相手を少しでも尊重する気持ちがあるのなら、生涯のどの場面においても、相手を理解できたなどという驕った考えを持ってはならないし、そのような言葉を口にするべきではない。
自分も似たような感情を持ったことを表現したいのであれば、ただ「私が○○だったときも、悲しかった」などと言えば良いのだ。
その「悲しい」は、他人の「悲しい」と重なることはけっして無いが、それでも本人にとって「悲しい」というのは事実であり、嘘偽りにはならない。
相手の気持ちを理解できるなどという幻想は、現代の世界にはびこる誤った認識であり、天動説と同様、人間の心の進歩によって、いずれは完全に否定され、嘲りの対象となるべき考え方である。
自死遺族に限らず、この世の全ての人間は、このことを理解した上で、社会に参加することを切に願う。
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